6月17日「変わらない神」 ルーカス牧師

 “主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。” (マラキ書3章6節)

 “イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。” (ヘブル人への手紙13章8節)

 ヨハネによる福音書11章でマルタとマリヤいう姉妹、その兄弟ラザロの話があります。ラザロは病気になり、亡くなってしまいました。イエスさまは、ラザロが亡くなった4日後にその街に行きました。これは神の栄光が現わされるためでした。

マルタは、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」と言いました。それはイエスさまによって、ラザロが癒されると信じていたからです。しかし、イエスさまは、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言いました。


 この後、「ラザロよ、出てきなさい」とイエスさまが言われると墓からラザロがおおいに包まれたまま出て来ました。エスのなさったこのことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスさまを信じました。

旧約聖書エゼキエル書37章では、渇いた骨に御言葉が語られると、その骨を肉が覆い、皮が覆い、息を入られ、大勢の人々が蘇ったことが記されています。私たちは、死人をも生き返らし、いつまでも変わることの無いイエスさまの霊、聖霊を受ける特権が今も与えられているのです。

拝島ユナイテッド・ペンテコステ教会
東京都昭島市緑町5-13-39
教会員 佐藤和森
教団のホームページ→ http://japanupc.org/

6月10日「御言葉の内にある思い」横山牧師

 “神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。”ヨハネによる福音書6章33-35節)

 子供の頃、私はカレーライスやハンバーグが大好きでした。大人になると趣向も変わり、一つのことも知りました。料理には、それは料理をした人の思い、愛情が込められているということです。その料理を作るために費やした時間や努力があることを知ることが出来ました。

聖書の中でイエスさまは私たちに多くの素晴らしい約束を与えて下さっています。イエスさまである命のパンを食するならば、私たちは朽ちることも滅びることの無い本当の命を与えて下さると神は約束しています。

エスさまの内にある思いはなんでしょうか?それはご自身を捧げることによって、闇に居た者たちを救い出し、解放し、光の中へと招き入れることです。

そのパンの中に含まれている神の思い、犠牲、血潮を考えると、感謝せずにはいられません。どうぞ自由を与えるこの命のパンを食べて、永遠の命を得て下さい。

旧約聖書エレミヤ書は、このように言っています。“主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。”


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6月3日「主を見上げる」ダッツモア牧師

 “わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。”詩編121篇1-2節)

 私たちは目と首を使って、物を見ます。従って目を開けている限り、私たちは日々の生活において、何かを見ていることになります。私たちが見ている方向には意味があるのです。

もしあなたが上を見上げるならば、神はあなたを豊かに助けることが出来ます。エデンの園において、神がアダムとエバを創造されたとき、彼らはいつでも神との交わりを持つことが出来る状態でした。

しかしエバがサタンに惑わされて神との関係が断たれたとき、全てが変わりました。それ以降彼らは、下や横方向にある木や葉など重要でない物を見始めていきました。人はそれらの方向を見始めて、自分の持っている問題に対する答えを探し求めるようになりました。

御言葉は“山を見上げよ、あなたの助けは主から来る”と言っています。従って、私たちは下にあるものではなく、上に居られる方を見上げ、その方を愛していきなさいと聖書は言っています。私たちは下を向いて答えを見付けることは出来ないのです。

あなたが周りの人々を見るとき、感銘を受けることがあるかも知れません。しかし、彼らから助けを得ることは出来ません。私たちが小さいことばかりを見ているならば、神が用意している大きい約束を逃してしまいます。主イエスさまを見上げて下さい。そこにあなたの答えがあります。

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5月27日「永遠の命を受ける」横山牧師

“しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。”(エペソ人への手紙2章4-6節)

神が天地を創造された時、罪はありませんでした。アダムの罪によってこの世に罪が入り、死が入りました。私たちは罪と死との法則に縛られていました。楽しみも喜びもない状態から、神は私たちを解放し、自由を与え、本当の喜び・平安・そして永遠の命を与えたいと願われました。

そのために神が人の形をとり、この世に誕生されました。その神の名はイエス・キリストです。このイエスさまに私たちが信じ、従うのであればイエスさまから素晴らしい賜物を頂くことが出来ます。

神イエスさまは真実な神であり、永遠の命であると聖書は言っています。イエスさまは十字架で死なれた後に、よみがえりました。神が死を滅ぼし、命を得たので、神を信じる者にも永遠の命が分け与えられました。

この永遠の命を受けることはとても簡単です。自分の罪を悔い改め、神に感謝し、賛美をしていく時に神の霊である聖霊があなたの心に入って来られます。

命と御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したのです。今日、あなたが罪を悔い改めるならば、そして聖霊を受けていくならば、あなたには美しく、素晴らしい人生が用意されています。

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5月20日「どんな捧げ物を捧げていますか」ルーカス牧師

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。”イザヤ書53章11-12節)

エスさまは自分の魂を死に至るまで注ぎました。残っているものはありませんでした。人々の救いのために彼は自分の全てを注いて働きました。人々を心から愛した故です。ご自身をその事に集中させていかなければ全てを注ぐと言うことは出来ません。

私が主に何かを捧げるならば、使う必要の無い余った物を捧げるのではなく、犠牲を伴った物を捧げたいです。何故なら犠牲が無くては最良の物を捧げているとは言えません。大いなる犠牲を払うこと無く、人々の救いが過去に起きたことはありません。これまでも無く、またこれからもありません。

あなたは人々のために涙を流して祈るでしょうか?孤独を感じている人々や自殺する人、自分の家族が来てくれないので、お金を払って他の人に自分を訪ねてもらうように頼む老人。刑務所に居る受刑者の魂はどうですか?誰も私の魂のことを思ってくれ無かったという叫びが聖書にあります。自分を救うなら、他の人の救いを見ることが出来ません。しかし自分を全て犠牲として捧げるならば、他の人の救いを見ることが出来るのです。

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5月13日「正しい選択をする」ルーカス牧師

 “主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。”(イザヤ書61章1-3節)

これはイエスさまの働きでした。悪魔は家族や病いのことなど、色々な方法で問題を起こさせます。そしてそれらに対して私たちは祈り・断食・聖霊の実によって戦う必要があります。

ダビデ王は「主よ、我が心に聖い心をお作り下さい」と祈りました。私たちは誰でも問題を持っています。悪魔は「それを続けていても意味がない、全て止めてしまった方が良い」と誘惑します。しかし神から外れて歩むことを選んではいけません。それは滅びに至る道だからです。

問題があっても再び立ち上り、悔い改めて続けることが正しい歩みです。神は愛、恵み、慈しみの方です。私たちをとても愛しておられる方です。

突然離婚をする人はいません。それに至るには少しづつ少しづつその状況に進行し、ついに離婚となるのです。

神との歩みも同じです。問題があっても神から離れることを選ぶのではなく、より神に近付いていくことが重要です。神は、このことのために十字架でご自身を犠牲として捧げられました。十字架の下に神の愛があります。何故なら、神にとって、あなたはとても大切な人だからです。

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4月29日「主は違う姿でご自身を現わされる」横山牧師

 “彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。”(マルコによる福音書16章17-18節)

私たちの間で神がされようとしていることを私たちは期待しています。イエスさまは十字架で死なれ、よみがえられた後、弟子たちにご自分がされたことと同じ働きをされることを期待し、更にそれ以上の働きが出来るようにされました。

以前から約束された神の霊である聖霊が建物などの神殿ではなく、人々の心に注がれることが間もなく起ころうとしていました。しかし、弟子たちは疑い、不信仰となっていました。

神の御業を目の当たりにし、御言葉を語り、聖霊を受け、人々に対して働いていくときに、神の力が豊かに現れ、人々が癒され、大いなる神のしるしと力が伴う働きをイエスさまは彼らに用意していました。しかし、彼らはイエスさまが亡くなった後、すっかり希望を失っていました。しかも、彼らはイエスさまの復活を聞いてもそれを直ぐに信じることが出来ない程でした。

原因は、彼らには疑いと不信仰があったからです。私たちはイエスさまが現わそうとしている姿を見ているでしょうか?私たちの思いでイエスさまに限界を設けたり、妨げてはいないでしょうか?イエスさまは私たちに正しいご自身の姿を見て、豊かな祝福を受けて欲しいと願っています。

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