10月23日 「今は恵みの時、救の日である」 横山牧師

“いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。”(ルカによる福音書19章41-44節)

 イエスさまがエルサレムに来て、イスラエルの人々に対してこのみことばを語りました。

 神は人に時があるという事を教えようとしています。あるとき、私は多くの人達が乗っている電車の中に居て、その電車がどんどん暗闇の地下に走っていく夢を見ました。まだ神を知らない私でしたが、神は私の心の状態を示してくれていた事を後で知りました。

 私には、2つのプレッシャーがありました。1つは私の両親が離婚をした事により、就職活動が不利である事。もう一つは一番下の弟が重度の障害者であった事です。私が中学生の頃、私はこの弟に怪我を負わせてしまいました。そのため弟は救急車で搬送されました。私は弟が死ぬことが無いように神に願い祈りました。その時、神がイエスさまであるということも知らずに祈りました。そして、もし弟が死んでしまったら、私も死のうと考えていました。手術が終わり、弟の手術が成功したことを知り、私は神が絶対にいると確信しました。

 時が経ち、私がアメリカの大学に留学した時、人々の性格や文化の違い、そして今までの常識が何も通用しない、日本で美徳と思われることが美徳と思われないなど、葛藤の日々がありました。その後、対人恐怖になり、学校に行けない精神状態となりました。人がどのように自分のことを思っているのか、また見ているのかを考え、明日という日が来なければいいと考えるようにまでなりました。そのため今という時を忘れるために大量のお酒を飲むようになりました。もし麻薬でも手に入るならば、私はそれを行ったことでしょう。私は、今という時を逃れるならば何でもしました。

 その後、川に飛び込むようにも考え始めました時、私は初めて神に祈りました。すると、私は神の臨在を感じました。唯一の神がいるかいないかという問題ではなく、私は実際に神を体験したのです。
私はあるクリスチャンの人と電話で話した時に、私が体験した神の臨在を強く感じ、彼の行く教会に一緒に行きたいと伝えました。

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 (マルコによる福音書1章15節)

 私はこれまでの行いを神に赦し求めました。人が悔い改めた罪を、神はいつまでも覚えてはいません。私は神の愛を感じ、涙が止まらなくなりました。神は、ずっーと前から私を愛してくれていたことをこの時深く感じました。私は唯一の神がイエスさまであることを知りました。そして、私はイエスの聖なる御名によって洗礼を受けました。私は罪の重みから完全に解放されました。私はうつ気味であったのでこれまで眠ることが出来ませんでしたが、この洗礼後、私の心に私は守られているという安心感があり、ぐっすりと眠ることが出来ました。

 神は私たちに時が有る事を知って欲しいと願っています。今は恵みの時、救いの時です。イエスはあなたを罪から救いたい、ご自身の血によって神の恵みを与え、人をあがない出すために、十字架で血を流されました。キリストの尊い小羊の血は今も生きています。

 人が心から私の罪を赦して下さい、と謙り、神の御前に出て、イエスの御名によって洗礼を受けるならば、イエスの血潮の力によって罪が洗い流されていきます。金や銀は、イエスの血潮と比べるならば、朽ちるもの、価値の無いものであると聖書は教えています。

 ”神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。”(コリント人への第二の手紙6章2節)

 イエスさまは今日あなたを助けたいと願っています。過去の思い、人を赦せないという思い、嫉妬、一切の悪い思いをイエスさまの血潮によって、聖めて頂きましょう。