2-3 人は裁かれた

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第2課/チャート3

Ⅲ.人は裁かれた
 今日空を抑ぎ虹を見る時、その虹が水によって再び地を滅ぼすことはしないと誓われた、神の約束の印であることを思い起こします。

 しかし、地はやがて、全く違った方法で神の裁きに直面することになります。そのことはペテロ第二の手紙3章4-7節で明らかにされています。ペテロはあざける者たちがこう言うであろうといっています。「『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、かわってはいない』と言うであろう。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によってなったのであるが、その時の世界は、御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる時まで.そのまま保たれているのである」

 裁きは邪悪で不信仰な人々に下されます。神が次に裁きのために用いられるのは水ではないでしょうが、以前に神に従うことを拒んだ人々が滅ぼされたのと同様のことが起こるでしょう。ノアもまた神への同じような責任を感じていました。

1.洪水の前の日々
 ノアの時代に起こった世界的規模の洪水は大変重要なことです。イエスはご自分の来臨について教えられるのにこの教訓を用いました。(マタイ24:37-44参照のこと)ノアの時代と今日との明確な比較に注意して下さい。

a)食い、飲み
 食べることや飲むことは何も悪いことではありません。生きるうえでの自然な欲求です。しかし多くの人は行き過きて自分の腹を神としてしまうようになります。(ピリビ3:17-19参照)

 肉なる人は肉の人を満たすことのみに関心を払います。セツ以外に洪水前の人々で、先祖アダムのように日の涼しい時に神と対話したり、アベルのように神に犠牲を棒げたり、エノクのように神と共に歩んだ人のことはほとんど記されていません。

b)めとり、とつぎ
 同様に結婚することは罪ではなく、親が娘を嫁がせるのは悪いことではありません。結婚は神に定められたものであり、神の祝福です。人が結婚し、信仰深い家族の深い絆や家庭を築き、地に増え満ちていくことは神の御計画です。

 創世記6章1-2節で、信仰深いセツの家系が肉に従ったカインの家系と交わったことを明らかにしています。ペテロ第二の手紙3章3-7鮪によれば彼らの振舞いはあざける者、不信仰な者となるまでに堕落しました。彼らはアダムやエバ、そしてカインに対する神の裁きを忘れてしまったのでしょうか。レメクが裁きを無視して、人を殺すのを誇っていることからも明らかにそうだと言えます。(創世記4:13-23参照)

c)買い、売り、植え、建て
 ルカ17章26-30節でイエスは、ロトの時代も併せて来臨の直前の日々との比較をされています。裁きが下る前の時について既に学んできたように、貿い、売り、植え、建てることは本質的には罪深いものではありません。

 人類は様々な分野で技術や才能を伸ばしてきました。ラメクの3人の息子達は天幕を作ること、家畜を飼うこと、音楽、産業に優れていました。彼らには今や娯楽としての音楽がありました。このようにして人は、特にカインの子孫は、権力、富、豊かさを増しました。彼らは色々なものを建てましたが、では祭壇はどこにあったのでしょうか。彼らの素朴な遊牧民の家系が洗練され、物質主義へと変わり腐敗していきました。地に暴力が満ちました。人の心に思い図ることは全て悪いことばかりでした。(創世記6:5-13参照)神は言いました。「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう」


2.彼らは気がつかなかった
 生活は同じように続きました。人々はいつものように仕事をしていました。裁きの前日も、他のどの日とも全く同じようでした。正確にいつ裁きが来るかという、期日を示すような、前もった警害はありませんでした!「いっさいのものをさらっていくまで、彼らは気が付かなかった」(マタイ24:39)

a)人の子の現れるのも、そのようであろう
 ノアは差し迫った裁きを宣べ伝え、警告しました。しかし罪深い世の反応はどうだったでしょうか。そうしたメッセージに対し今日も同じような反応がされます。「そのことは何回も闘きましたよ。裁きの日が来るとは思いませんね。今までとは全くなにも変わりませんよ」
賢い人は神の言葉に従い、主の来臨のための備えをしています。

b)同様の極度の悪
 ノアの時代と現代とを比較してみると、そのどちらにも共通している特徴として、悪が極度に達していることが挙げられます。テモテ第二の手紙3章1-4節は現代について明確に述べ、これらが終わりの冒のしるしであると言っています。

 ノアの時代に、洪水がくるとは思いもしなかった人々が全て滅ぼされたのと同じように、神の裁きは終末の世代にも臨みます! 神の再臨がいつかという期日を示すような追加の警告はありません。イエスが言われたように。「その日その時はだれも知らない。天の御使い達も、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう」(マタイ24:36、37)

3.ノアは備えをした!
 何年もの間奇妙な舟を造るために働き、差し追る洪水について語ったりしていたので、ノアは風変わりに見えたことでしょう。恐らく彼は多くの人々の冗談の種となり、呑気に構えている人々の話題になったことでしょう。しかし洪水が来た時、神に従ったノアは箱舟の中で外を眺めていました。一方、あざけって信じなかった人々は白らの罪の報いに苦しんでいました。

 主の再臨の時もそのようでしょう。命についての神の言葉を拒否し、神に仕える機会をはねつけた者は、罪の宣告と悲しみと痛みを受けることになります。神の声に喜んで従い、備えをする者は永遠の喜びに導き入れられるでしょう。

 イエスはこう言っています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失うものは、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」(マルコ8:34-38)

by カレブ