世の罪を取り除く神の小羊

 私が最初、自分が罪人であると認めることは難しいことでした。聖書には、“すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、”(ローマ人への手紙3章23節) とあります。私の思いでは、「罪人」とは、罪を犯したことにより、警察に逮捕される人が「犯人」或いは「罪人」という理解でした。その為、聖書で言う「すべての人は罪を犯したため・・・」という御言葉を理解することが出来ませんでした。

 この世界で、一人だけ住んでいるのではありません。他の人々と共に住み、生活をしています。共同生活において必要なものは、ルールです。このルールを守らなければ、お互いに迷惑を被ったり、好き放題をする人々で溢れてしまいます。従ってこの世には、ルール(法律や規則)があります。このルールを破ってしまった人は、罪を犯した人、犯人或いは罪人となります。

 警察で逮捕する犯人や罪人は、「これを盗んでやろう」「あいつを殺してしまえ」という心の思いを実際の行動に移してしまった為に逮捕されます。しかし、心に思っただけでそれを実際の行動に移さなければ逮捕されることはありません。これが人の言う罪です。

 しかし、神の言う罪は違います。神の言う罪は、その心の思い自体が罪であると言っています。実際の行動に移さなくても、心で思うこと自体が罪であるということです。

 イエスさまがこのように言っています。
“『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。“(マタイによる福音書5章27~28節)

 聖書で言う罪とは、
① “すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。“(マルコによる福音書7章21~23節)

② “肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。”(ガラテヤ人への手紙5章19~21節)

 そして、バプテスマのヨハネがイエスさまのことをこのように言っています。
ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書1章29節)

 すべての人は罪人です。誰でも聖書で言う罪を心に思ったことがあると思います。ねたみ、高慢、愚痴、怒り、誰もこの様なことを一度も心に思った人はいないと思います。しかし私たちには希望があります。イエスさまだけがその罪を取り除く神の小羊であると聖書は言っています。私たちの罪をイエスさまは清めて下さるのです。

By カレブ