私たちの証し(5-10)

 「私たちの証し」は、教会に集う人々が神イエス・キリストを知り、それまでの人生が全く変えられたという実話です。

 私たちの証し(5-9)からの続きです。

 私が神の臨在に入りイエスさまの御声を聞くときは、声ではなく主の思いが心に与えられます。とても聡明で、その言葉1つ1つが優しさと愛に溢れていて、癒しのような感じでした。主の臨在に包まれている時の感触は、電気毛布に包まれているかのようです。周りの物音が一切聞こえず、電球の中に入っているような黄色い明るさが広がっていました。それは言葉に表す事の出来ない程の素晴らしさです。私はイエス・キリストの御名によって、洗礼を受け、魂に聖霊を受け入れて新生したのです。

 その聖霊を頂いてからは、この世にいて天国の素晴らしさを体験し、また、それと同時に地獄の状況も強く示され、とりなしの祈りで用いられるようになりました。これらの経験によって、確信が与えられたが故、人々に証しする事が出来るのです。今の時代は、キリストが犠牲になり、十字架につけられ、死なれたおかげで、天の窓が開かれ、聖霊の祝福が受けられる恵みの時代に生きているのです。そして主は、語られました。“私は、再臨の準備に入っている・・・”と。その後、天の窓は閉じられ、聖霊の注ぎは無くなりました。

 私は朝まで主と共に御霊のとりなしの祈りで泣き崩れていました。そして主は言われました。“行きなさい。そして全ての者に真実の救いを述べ伝えなさい。私があなたに宣教の免許を与えた”と。聖霊は私たちが信じて受け入れた時から無くなる事は無く、祈る度に日々の思い煩いや重荷からも解放して下さいます。私は今では本当に心の底から真の幸福と出会い、この世に生まれて良かったと思えるようになりました。そして全ての人がこの祝福に預かる事が出来たら、この世の中は、どんなに平和になる事でしょう。

 この神の契約は、キリストが十字架にかけられ、よみがえり、天に昇られた日から、全ての人の上に与えられているものなのです。そして神は、私の過去の経験を通し、神の計画に従って用いて下さっています。そして私と同じ状況の中苦しんでいる人々に私を通し、救いへと導いて下さり、希望の光を与えて下さっています。何故ならば、私には彼らの気持ちや心の痛みが分かるからです。そしてイエスさまは、私たちの悪い状況も益となさる事が出来る素晴らしい方です。

 主は語られました。”私は傲慢な王のように、教会の建物だけに座しているのではなく、あなたが歩んだ人生の中で、一番みじめな場所で共に居たんだよ“と言われました。神は、私たちが人生において、神も仏も居ないと思える時ほど、働いておられるのです。また私に御言葉を示して下さいました。“涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう”(詩篇126編5,6節)そして主が救いに導いて下さった人々の中には、精神障害一級という重い病気に苦しみ、包丁を抱えたり、いつも死にたいと言って泣いたりしていた女性が聖霊イエス・キリストの名によって洗礼を受けたところ、今では私の為にとりなしの祈りをしてくれる程に変えられ、それ以来彼女は入院をした事がありません。 続く・・・。 By カレブ