われらの神、イエス・キリスト

 日本人は信仰深いと思います。色々なものを奉り、崇めることを古くから行っています。
以前、わたしも道端に居るお地蔵さんに手を合わせて祈ったものでした。
また、大木や大きな岩に巻かれているしめ縄を見た時などは、必ず手を合わせいました。時にはお賽銭までしていました。神さまなのか、仏さまなのかよく理解はしていませんでしたが、崇めるということをするべきであり、またそうしなければ罰が当たると思ったりもしました。しかし、今主イエス・キリストを知り、全ては変わりました。今まで私がしていたことは全く無駄であったということと、主イエス・キリスト以外を拝することは、イエスさまを悲しませていることを知りました。

 パウロ(ほとんどの新約聖書を書いた人)が、伝道旅行でアテネに行ったときに次のように言っています。
 “「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。

 ダビデ王がこのような詩を書いています。
 “彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。“

 お地蔵さんやその他の像に拝んで、望みのものを得たことはありますか?悩み苦しむときに語ってくれましたか?つらいときに手を差し延べてくれましたか?私たちの主イエス・キリストは、1匹の羊が迷い出てしまっても他の99匹をおいて、その1匹を探しに行かれる方です。主イエスさまは、私たちを励ますためにその口で語り、私たちがつらい状況に居るときもその目で見て知っており、私たちの心の叫びをその耳で聞き、私たちが主に香ばしい香りを捧げるときにその鼻でかぎ、私たちが困っているときにその手を差し延べ、人が主を求めるときにその足で主はすぐ近くまで歩みより、「あなたは、わたしにとって高価で尊い」と語るお方です。あなたの、そして私たちの望むものは主イエスさまが豊かに与えて下さいます。 By カレブ