1月29日「自分を聖く保つ」ルーカス牧師

 ”むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。”(ペテロの第一の手紙1章15節)

 「聖さ」とは、聖くないものから分離し、神の方へ向って歩むことです。よって神が嫌うことから分離しないで聖別されることはありません。

 例えば結婚式で牧師はこのように新郎に言います。「あなたはこの女性を妻とし、健やかなる時も病む時も愛することを誓いますか?」 この意味は、これまでの全ての関係を絶って100%自分自身を捧げ、この女性を愛することを誓いますか?と言うことです。もし新郎が「私はこの女性と結婚はしたいのですが、他に沢山のガールフレンドがいます。そのガールフレンドとの関係は保っていたいのです。」と言うならば、この新郎は自分自身を100%その女性に捧げてはいません。これでは結婚は成り立ちません。

 結婚というものは、全ての関係を絶って、この女性に対して自分の全てを捧げるということです。結婚しているにも関わらず、facebookで「独身」「恋人募集中です」とすることや、昔の彼女とチャットしたり、何処かへ出かけたりするならば、その人はうそつきな人です。また「全ての関係を絶ちますが、私は誰にも束縛されたくありません。この男性に自分自身の全てを捧げたくありません。」と言うならば、これも結婚の定義から外れてしまいます。

 これと同じように、神に聖別されるということは、これまでの持っていた関係から完全に離れて、義なる神の方へ向かうことを意味しています。ヨハネの黙示録に、あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。とあります。

 神の国に完全に入ろうとするのか、或いは全く拒むのか、しかし時々入り、時々出て行くことということは最も悪いと言っています。熱い人と冷たい人は自分自身がそのことを知っているので神に願い求めることが出来ます。しかし、なまぬるい人は自分では大丈夫、救われていると思って神に願い求めることがありません。しかし、裁きの時に神はその人を吐き出すと言っています。

 主が来られる時は近いです。私達はそのために自分自身を全く聖く保って行きましょう。