天に喜びがあるとき(その2)

 前回の続きです。罪人が悔い改めるときに、大いなる喜びがあり、祝宴があります。このたとえ話は、放蕩息子という話で、よくメッセージに用いられます。良い家庭で育った息子たちの一人が父から受け継ぐ資産を先にもらって、全てを使い果たした後、どれ程、今の自分がみじめで、どれ程、父の家が恵まれているかと改めて理解し、悔い改めて実家に戻るという話です。

 “「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
 
 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。

 まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。”(ルカによる福音書15章11-24節)

 ユダヤ人にとって、豚は忌み嫌う動物でした。この息子は、そのような動物の世話をし、且つ、その動物の餌を食べて、自分の空腹を満たしたいと思うほど、みじめな状態でした。彼は自分がどれ程恵まれた家に生まれ育っていたかを改めて知り、へりくだり、実家に戻ることを決心しました。家路に向かっていると、彼の父は、まだ遠くに居た息子を見つけ、走り寄り、キスをしたとあります。遠くで見つけるには、いつでも休まず、息子の帰ってくることを期待し、気を付けていなければいけません。父はその息子を叱るどころか、最上の着物を与え、はきものを与え、祝宴が始まったとあります。

 これらのたとえ話は、天の国(御国)のことのたとえです。神は、失った人々が悔い改め、神に立ち返って来ることをいつでも待っているのです。戻って来た人の心にある喜び以上の喜びが、天にはあるのです。

By カレブ