3月11日「私たちはイエスさまに従っていますか?」ルーカス牧師

 さて、イエスガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。”(マタイによる福音書4章18-22節)
 ヨハネヤコブ、ペテロとアンデレはイエスさまに従いました。導くのはイエスさま、従うのは私たちです。彼らは自分のしたいことや、夢を捨ててイエスさまに従いました。彼らはその自分たちの夢に戻ることもありませんでした。故にイエスさまは彼らを祝福し、彼らの人生は豊かなものとなりました。彼らの人生はイエスさまに従ったことにより良いものとなりました。
 
 “それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。”(ルカによる福音書9章23-25節)
 日々自分の十字架を捨てて従って来なさい。イエスさまは誰にでもそのことを頼みました。今日私たちもそのイエスさまの招きを聞くことが出来ます。私たちに手を伸ばしています。イエスさまは言われます。「どうぞ私に従って来て下さい。」
 
“さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。”(マタイによる福音書9章9節)
マタイは収税人でした。彼は別のタイプの人間でしたがイエスさまに従った時から変わりました。イエスさまから素晴らしいことを聞くことが出来ました。従わなかったらペンテコステの日に聖霊を受けることはありませんでした。主を信じて従ったことにより、素晴らしいことを見、素晴らしいことを頂きました。祝福を頂きました。主は私たちを愛しています。主の招きは霊的に永遠の命を得ることなのです。
 
パウロが主の声を聞いた時、「主よ、私は何をすれば良いでしょうか?」と言いました。その意味は、今から自分の歩みを捨てて私は主に従いますということです。
 
 “主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。“(詩篇23篇)
 主が私たちの牧者、羊飼いです。羊が羊飼いに対して、あちらに行きたい、こちらに行きたいというリクエストを出すことはありません。導く者は羊飼いで導かれる者は羊です。主が私たちの牧者であるので、主がその道を選ぶことが出来ます。私たちは従います。私たちはそのように主に従います。主に信頼して従うことは喜びです。主を導いて下さい。私は従います。
 
 “わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。”(ヨハネによる福音書14章10節)
 ダビデは王になる前も、なった後もいつも主の導きを求めて行いました。いつもダビデはそのことをしたので神は「彼は私の御旨にかなう者」と呼ばれました。
 
 聖書の中に主に従った人々を見ることが出来ます。そしてその人々が主に豊かに祝福されたことを私たちは知ることが出来ます。
私たちも同じように主の導きに従うことを選んで行く時に、聖書で見る祝福も豊かに与えられていくのです。
 
 
拝島ユナイテッド・ペンテコステ教会
東京都昭島市緑町5-13-39
教会員 佐藤和森
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